野の百合、空の鳥

野の百合、空の鳥

アニメ・漫画・文学を「読む」

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて

僕が「赤」だと思っているその色は、実は「青」?

具体的な話からはじめよう。

 

こんな話を聞いたことがないだろうか?

 

僕はいつもリンゴを見て「赤」だと思っているけれど、君はそのリンゴを僕が「青」と認識する色で見ている可能性がある、という話だ。

 

このとき、君にはリンゴが僕の言う「青」という色で見えているけれど、君はそれを「赤」と呼んでいる。そして僕もそれを「赤」だと言うから、そこには齟齬は生じない。

 

そしてこれは僕と君の間だけの問題ではなく、すべての人の問題かもしれない。実はリンゴがみんなそれぞれ違う色に見えている可能性がある。でも誰も他人にはなりようがないから、それを「赤」と呼ぶ限り、誰にもほんとうのところはわからない

 

これは有名な話だから、どこかで聞いたことがあるかもしれない。哲学のことばで言うのなら、これは「逆転クオリアと呼ばれる思考実験に近い。クオリアというのは主観的に感じる感覚の「質」のことだけれど、「逆転クオリアでは例えば、色覚のとが入れ替わっている(逆転している)ことが想定される。

 

今日僕がしたいのは、この「逆転クオリア」と似たような話だ。でも僕がしたいのは「感覚」の話じゃない。「言葉」の話だ。

 

先に要点を言っておくと、この「逆転クオリア」と同じようなことが「言葉」の次元でも起きているんじゃないか、もしそうだとしたら、「言葉」は無力だし、あるいは有力とも言えるんじゃないか、と、そういうことになる。

 

今日はそういう話をするから、アニメや漫画の考察を期待していた人には申し訳なく思う。だけどこれはとても大切な問題だ。アニメとか漫画とか小説とか、その根本にある「言葉」の問題だ。きっと生涯無関係でいられるけれど、絶対どこかでみんなに関係している問題だ。大切なことだから、今日はすこし僕の考えを聞いてほしい。

 

問題意識はどこにある?

どうして僕がこんな「言葉」のことを問題にするのか、それを初めに語った方がわかりやすいだろうから、そのことを話そう。

 

これについては僕の以前のツイートがわかりやすいからそれを貼ることにする。

例えばそういうことだ。

 

あるいは、もっとわかりやすい次元の話から始めてもよいかもしれない。

 

例えば、僕が「頭が痛い」と言ったとしよう。君が「どれくらい痛いの?」と聞くと、僕は「足の骨を折ったときくらいの痛みだよ」と言ったとする。もし君が足の骨を折ったことがあるなら、「そうか、それは痛いだろう。お気の毒に」と言うかもしれない。

 

でもちょっと待ってほしい。頭の痛みが、足の骨の度合いではかれるだろうか?あるいは僕の痛みが、ほんとうに君に理解できるだろうか?痛みの度合いなんて、人それぞれではないのだろうか?

 

つまり「痛い」と一口に言っても、その「痛み」は人それぞれだし、君は僕になれないのだからその「痛み」の程度なんて知りようがない。あるいは逆に、僕も君になれないから、君のほんとうの「痛み」なんて知りようがない。

 

一言で言えば、「痛み」なんて人それぞれということだ。

 

このことからまず、「言葉」は無力だ、ということが言えそうだ。なぜなら、「痛み」の程度なんて人それぞれで、ほんとうの「痛み」は理解しようがないのだから、「痛い」という「言葉」を使ったところでほんとうのことは伝わらないからだ

 

この「痛み」の例では、そういうふうに、ほんとうの感覚なんて伝わりっこないというレベルで、「言葉」は無力だ、と言える

 

でももちろん、これに反論することもできる。

 

だって、ほんとうの感覚なんて伝わりっこない、とは言っても、僕が「痛い」と言わなきゃ、僕が「痛い」と思っていることが君には伝わらないからだ

 

要するに、言わなきゃわからないこともある、ということだ。僕が「痛い」という言葉を使わなければ、君は永遠に僕が「痛い」ということには気づかないだろう。

 

この意味で、言葉は有力だ、と言える。つまり、ほんとうのところは伝わらなくても、「言葉」があることではじめて相手に感覚が伝えられるという意味で、「言葉」は有力だと言える

 

おおよそ以上のようなことが、僕が問題にしていることだ。ある意味では「言葉」は無力だし、ある意味では「言葉」は有力だ、ということだ。

 

だけど事はそう単純じゃない。事はもっと複雑だ。

 

箱の中のカブトムシ

さっきの「痛み」の例で言うと、「言葉」が無力か有力かで言えば、僕は正直「有力」の方に軍配が上がるのではないかと思う。

 

僕は今回どちらかと言うと、「言葉」の無力さの方について書きたいと思っているから、有力さの方は放っておきたいのだけれど、なかなかそうもいかない。

 

なぜなら言葉はやはり有力だからだ。僕は「言葉」が無力だと思っていると同時に、同じくらい有力だとも思っている。今回は無力さに少し傾けて書くけれど、僕が同じくらい「言葉」は有力だと思っていることは、きちんと強調しておきたい

 

例えばさっきの「痛み」の話で言うと、やっぱり「痛い」って言うことは大事だ。とくに目に見えない部分、例えば胃とか頭とか、そういうものの痛みを伝えるとき、「痛い」って「言葉」はとても大切になる。

 

だから、言葉が無力だという主張に対しては、「ほんとうの痛み」はたしかに誰にもわからないけれど、そんなこと言ってたらどうしようもないし無意味だ、という反論もある。

 

例えばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという人が、そんな反論をした人の一人だ。

 

例えば彼は「箱の中のカブトムシ」という思考実験で、私的言語=他人には伝わらない完全に私だけの言語、つまりここで言うところの「ほんとうの痛み」を否定している。

 

「箱の中のカブトムシ」とは、以下のような思考実験だ。

  1. ある共同体に属する人々が、みんなおのおの「カブトムシ」の入った箱を持っているとする。
  2. ただしそのとき、誰も他人の箱の中を覗くことはできず、みんなはそれぞれ自分の箱に入ったカブトムシを見ることによってのみ、カブトムシが何であるかを知る。
  3. この共同体の人々が「カブトムシ」という言葉を使っても、それは何も指し示さない。なぜならそれぞれの人の箱に入っているものは、全く異なっている場合もあるし、それが常に変化していたり、箱の中が空だったりすることもあるからだ。
  4. だから結局、「カブトムシ」という言葉はその共同体において通じるけれど、おのおのの箱の中身は全く関係ない。*1

こうしてウィトゲンシュタインは、私的言語を否定しているが、「カブトムシ」を「痛み」で言い換えると、さっきの話になる。

 

つまり人々はおのおのでそれぞれ異なった「ほんとうの痛み」を抱えているけれど、「ほんとうの痛み」がどのようなものであるかは、公的なコミュニケーションをとる上では全く無意味だということになる。

 

確かにそうだろう。

 

だって、「俺のほんとうの痛みはお前の思っている1000倍は痛いんだ!もっとやさしくあつかえ!」などと言っても、「いや、お前のほんとうの痛みなんてわからん。もしかしたら俺の思っている痛みの方が痛いかもしれないだろ」となるからだ。

 

でもその「ほんとうの痛み」を、公的コミュニケーションをとる上では無意味だ、と単純に切り捨ててよいのだろうか?

 

僕が感じているこの「痛み」は、誰のものでもないこの「痛み」は、切り捨てられてよいのだろうか?

 

差延

 やっぱり事はそう単純じゃない。

 

僕が感じる「ほんとうの痛み」は、「痛い」という「言葉」によって意味を捨象されてしまっているかもしれないからだ

 

もっと簡単に言うとこういうことだ。

 

僕が「痛い」といったとき、君が「痛い」という言葉で想像するその「痛み」をはるかに絶するくらいものすごく僕は「痛い」と感じているかもしれない、ということだ。

 

でもだったら「ものすごく世界一痛い」とか言えばいいだろ、とそういうことになってしまう。だからこの場合、「痛み」という例はふさわしくない。

 

例を変えよう。このとき挙げる例は「言葉」にしにくいものであるほどよい。

 

例えば「好き」という感情を例にとってみよう。

 

僕が君のことを「好き」と言ったとき、君が僕の「好き」を友達として好きだと解釈したなら、僕がほんとうに思っていた恋人以上の「好き」という気持ちは切り捨てられてしまう。

 

あるいはちょっと違う種類の例で、「犬」というのを考えてみよう。

 

君が「うちの犬がね、死んじゃったの」と言い出したとしよう。そうすると僕は(かわいそうに……)と思うかもしれない。でもそのとき、ほんとうに君が思っているような悲しみは伝わってこない。君がほんとうに思っている、君の飼い犬に対する愛着、長年一緒に過ごしてきてはぐくんだ愛情、やわらかい毛並み、あたたかな体温、そういうものは全部「犬」という「言葉」にした瞬間、すべてそぎ落とされてしまう。

 

この意味で、「犬」という「言葉」は、君が思い描いているいろんな意味を捨象してしまう。

 

こういう風に、ときに自分が思い描いているものごとと、書かれた「言葉」にはある種のギャップが生じる。このギャップを、ジャック・デリダ差延*2と呼んだ。

 

デリダのすごいところは、この「差延」が「痛み」のような個人個人の感覚(クオリア)だけでなくて、「言葉」のすべてにおいてあるんじゃないか、と言ったところだ。

 

デリダの言わんとするところは、少し雑に言ってしまえば以下のようなことだ。

  1. 私たちが思い描いていることは、人それぞれ全くことなるかもしれない。
  2. しかし我々は「言葉」を介してしか、思い描いていることを共有できない。
  3. つまりみんながどんなに違うことを思い描いても、結局は「言葉」に回収されて、絡めとられてしまう。

デリダの「差延」は、さっき言ったようにすべての「言葉」において成り立っているから、例えばそれは感情や感覚だけでなく、物理的な事物においても成り立つはずだ。

 

例えば僕が「電車」と言ったら君は何を想像するだろうか?山手線のあの緑色の電車だろうか?あるいは京浜東北線のあの水色の車両だろうか?

 

結局、僕や君がどんなイメージを思い浮かべたとしても、「電車」という書き言葉にしてしまうと、絶対にそのイメージと「電車」という書き言葉の間には差異が生じてしまうだろう。

 

デリダはそういうことを問題にした。

 

僕もそういうことを問題にしているのだけれど、とりわけ僕が問題として意識しているのは「人間」に関することについてだ。

 

「言葉」では表しきれない関係

話は一周する。

 

もう一度僕のツイートを見てほしい。

今まで読んできた人ならば、僕の言っていることがより伝わるのではないかと思う。

 

上のツイートの場合は「恋愛」という言葉の無力さ男女の関係について述べているけれど、もちろん他の関係でも同じことが言える。

 

例えば男同士がくっついていたり、多くの日々を一緒に遊んでいたりすると、「ゲイ」と言われることがある。

 

この場合は、完全なる誤解なので、少し事情が異なるけれど、同じような問題が生じる。

 

もしも仲の良い男同士が「ゲイ」だと言われたなら、そのときそこにあるはずの友情や、友愛や、絆、言い難い関係というのは「ゲイ」と言われることでそぎ落とされてしまうのではないだろうか。このとき、その関係性を的確に表現できない「言葉」は無力だと言える。

 

また、この場合はもっとより大きな問題も生じる。

 

「ゲイ」という言葉で君は何を想像するだろうか?「ゲイ」という言葉は、ときにそこに肉体関係があることを想起させることもある。

 

もしも「ゲイ」という言葉がそのような作用を発揮したなら、それは当人たちを傷つけることにつながるかもしれない。そのとき「言葉」は無力を通り越して、ある意味で「有力」な刃物になる。

 

そのように考えれば、「言葉」が関係性を表すのにいかに「無力」であるか、そしてときに危険な「無力さ」を示すかがわかってもらえるだろう。

 

「ゲイ」の例は誤解だし極端だけれど、それと同様のことで、「言葉」の無力さが、人間の関係を形容することに失敗し、ときに人を傷つけるというのはほかにもあるのではないだろうか。

 

「言葉」では表しきれない感情

あるいは「言葉」の無力さと有力さについては、「言葉」が感情を指し示すときに顕著だ。

 

例えば「エモい」という「言葉」がある。ある、というか誕生した(?)の方が正しいのだろうか。

 

「エモい」が語彙力低下の象徴である、というような話を最近聞いた。それはたしかにそのような側面もある気がする。個人的な感触では、やっぱり読書量の減少が語彙力を低下させる要因になっている気がしないでもない。

 

しかし「エモい」という言葉は、ポジティブに捉えれば、「言葉」の有力さを示す例だと言える。

 

例えば「エモい」という言葉でしか表現できない感覚、感情があるとしたらどうだろうか?「エモい」という言葉は、既存の、例えば「うれしい」とか「きもちいい」とか「興奮する」とかそういう「言葉」で表現すると取りこぼしてしまうような感情を拾っているのではないだろうか

 

完全に個人的な感覚の話だが、僕は「エモい」という言葉を、そういう、「エモい」でしか表現できないなんかわかんないけど脳汁が出るような言いようのない感覚を味わったときに使っている。

 

あれ……そういうふうに言葉にできている時点で「エモい」は言いようのある言葉になってしまうのか……?

 

しかしでも「興奮する」とか「うれしい」とかで今まで捨象されていた感覚を、「エモい」が少しでも拾っているのなら、やっぱり「言葉」は有力だとポジティブに捉えられるのではないだろうか。

 

「言葉」では表しきれない「人間」

「エモい」という「言葉」は有力かもしれないけれど、やっぱり僕は言葉の無力さを感じることの方が多い。

 

まとめてしまうと、それはやっぱり「言葉」が「人間」を形容するときに特に感じる。

 

最近思うのは、それぞれ固有の、みんな違うはずの「人間」が、どうして「大きな主語」でまとめられてしまうのか、ということだ。

 

例えば、ついったらんど*3に存在する似非「フェミニスト*4という人々がそれに当たる。

 

彼ら彼女らの一部は、なぜか主語を「男は~」という「大きな主語」にしてしまう。 

 

そうするとその「大きな主語」にくくられない「少数派の男」が、それに反駁する。しかしその「少数派の男」とやらも、「女は~」という「大きな主語」を使いだして、さらに反駁される。そうして不毛な議論が日夜繰り広げられている。

 

もちろん、科学的に「男性的な傾向」、「女性的な傾向」というのは存在するかもしれない。しかし「すべての」男性、「すべての」女性に当てはまる普遍的な規則は存在しえないだろう。

 

もちろん、何か議論を円滑にすすめるために、どうしても「大きな主語」を使わなければならないときもある。しかしすべてを一緒くたにまとめてしまう「言葉」の暴力は、無力さ有力さ以前の問題であるように思う。

 

そのような問題は別として、より小さなレベルで、「大きな主語」にからめとられてしまっている「人間」がいるように思う。

 

可能性としては、きっとLGBTなど、かつてマイノリティとされて人々がそれにあたるのだろう。

 

例えばさっき例に挙げた「ゲイ」という関係、あるいは「人間」がこれに当たる。

 

大切なのは、「言葉」が無力だからといって、その無力さにすべてを投棄してしまわないことのように思う。

 

「言葉」は今まで見てきたとおり、関係性や人間を表すのに無力であることもあるけれど、その関係性や人間を救うことができるのも「言葉」だけではないのだろうか

 

形容しがたい「人間」が、ときに権利を認めてもらったり、理解はしなくとも認めてもらったりできるのは、うまく表現できない「言葉」で、それでも極限まで頑張って表現するときだけではないのだろうか

 

だから僕はウィトゲンシュタインデリダの間に立つ。

 

デリダの言うように、きっと「ほんとうのところ」「言葉」の間にはギャップがある。でもウィトゲンシュタインの言うように、人間が人の間で生きるためには公的な「言葉」しか有効でない。

 

だから僕は、無力でかつ有力な「言葉」で、それでも頑張って表現をするべきなのだと思う。

 

「言葉」で無力にされてしまう「ほんとうのところ」に、それでも「言葉」で肉薄していくべきなのだと思う。

 

人が共生するには、理解はできなくとも、「言葉」を介して認め合うことが必要であると、僕は思う。

 

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて

どうだっただろうか。

 

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて、僕は「言葉」で表現してみた。

 

うまく伝わっただろうか。

 

君がこれを読んで、「言葉」は無力だなとか、やっぱり「言葉」は有力だなとか、何か「言葉」について考えてくれたらうれしい。

 

つたない「言葉」だけれど、僕はこれをつかって、これからも生きていこうと思う。

 

<参考文献>

逆転クオリア - Wikipedia

私的言語論 - Wikipedia(箱の中のカブトムシの項目あり)

差延 - Wikipedia

*1:私的言語論 - Wikipedia参考

*2:もちろん僕はデリダの「差延」をきちんとは理解していない。デリダの言っている「差延」はもっと広い意味で使われていると思うし、その意味を僕はこの文脈では汲み取れない。だから雑な扱いになってしまうけれど、ここではそういうギャップとして、「差延」を使わせてもらいたい。

*3:仮想世界

*4:そもそも「フェミニスト」は、女性の権利をおだやかに拡大させようとか、女性にやさしい男性を指すはずで、ネットにはびこっている女性を絶対的優位に立たせようとしている人々や、男嫌いと混同される存在ではなかったはずである。最近プロフィール欄に「フェミニスト」と「ミソジニー=男嫌い」を並べているアカウントがあって驚きを覚えた。彼ら彼女ら似非フェミニストが「フェミニスト」だと思ってしまうと、真摯に活動している本当の「フェミニスト」がかわいそうである。

俺ガイル考察 5巻でカマクラがネコリンガルに残した言葉

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隔週更新のお知らせ

タイトルままです。

 

前どこかで毎週土曜更新!とか生意気なことを言ってしまったのかもしれないのですが、お気づきの通り、ここ最近は隔週土曜更新でした。

 

一応、ダリフラが終わってからは隔週土曜更新という気持ちでいたのですが、もしも毎週だと思っている方がいらしたら申し訳ないと思い、改めてお知らせすることにしました。

 

そして土曜、とは言っても、だいたい土曜と日曜のはざまに更新することになります。すみません。

 

そんで今回の記事は?という話なのてますが、今回は明日の11月25日日曜日に更新したいと思います。

 

もしかすると、今後、隔週更新が毎週更新日になることがあるかもしれませんが、しばらくは隔週でいきたいと思います。

 

アニメに漫画、文学、そして哲学と、ここまではやりたいことを自由にやれている感じです。この調子でいきたいと思います。

 

今後ともよろしくお願いいたします。

フランス現代思想入門の入門

臆病じゃ始まらない

 ブログの内容ですごく悩むときがあります。

 だいたいそれは、こんなこと私が語ってよいのだろうか、無知をさらしているだけになってしまわないか、そういうふうに思うときです。

 要するに自分の無能っぷりがさらけ出されてしまったら嫌なわけです。人間、できるだけ賢く見られたい、そんな欲が出てしまうものです。

 

 そんなわけで、なかなか哲学のことについて書くことができなかったのですが、今回は思い切ってそれについて書いてみたいと思います。

 いつまでも臆病でいても始まらないですし、絵と同じで下手くそでも書かなきゃ上手くなりません

 

 内容的には、以前のブログで言っていたフランス現代思想について書きたいと思います。

 もちろんいきなり突っ込んだ内容を書くわけにもいかないので、今回はフランス現代思想のめちゃくちゃざっくりした見取り図的なものを描いてみようと思います。

 フランス現代思想には、こんな人が登場して、こんなことを言ったんだよ、というのを少しだけ書いていく感じです。

 

 それから私はフランス現代思想の専門家、というわけでもありませんから、内容についてはある程度疑いの目を持っていただきたいです。というより哲学という学問の性格上、それ自体難解ですし、解釈も様々です。

 何か決定的な誤りや微妙な解釈違いなどありましたら、コメントの方に(参考文献も書けたら)書いていただきたいです。

 それではやっていきましょう。

 

 

実存主義 ――サルトル――

「実存は本質に先立つ」

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1955年に北京でシモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトル

 「何のために生きてるんですか?」

 そう聞かれて即座に答えることが出来る人は少ないと思います。つまり、人間には初めから存在する意味が与えられているわけではありません

 このことをサルトル「実存は本質に先立つ」と表現しました。

 

 よく引き合いに出されるのはペーパーナイフの例です。

 ペーパーナイフは、紙を切るため(=本質)に作られ、現実に存在(=実存)しています。この場合、ペーパーナイフは「本質が実存に先立っている」と言えます。なぜなら何のために存在しているか(=本質)が現に存在する(実存)よりも先に決まっているからです。

 人間の場合は逆です。

 前述の通り、人間は何のために生きるのかという目的(=本質)が決まる前から、現に存在して(=実存)います。

 

 言われてみれば当然ですよね。私だって何のために生きているのか、よくわからないまま生きています。

 ちなみに、サルトルはこれを言い方を替えて「人間は自由の刑に処せられている」なんて言いもしました。何のために存在しているのかわからないから、自由に生きざるを得ない、ということですね。

 まあそれはいいとして、問題はサルトルがなんでこんな当たり前のことをカッコつけて言ったのか、ということです。「実存は本質に先立つ」、だから何だというのでしょう?

 

アンガージュマン(engagement)」

実存主義とは何か

実存主義とは何か

 

 サルトルの言い分はこんな感じです。

 人間何のために生まれたかわからない。わかんないから、なんか生きる目的を見つけなきゃいけない。生きる目的を見つけるためには何か行動を起こさなきゃいけない。むしろ行動によって自分が決まっていくんだ。

 という感じで、サルトルは人々に何かしら行動することを促しました。

 これがアンガージュマンです。「アンガージュマン」とは端的に言えば、積極的に行動する、ということです。

 人間生まれてしまったからにはいろいろな状況、場面に出くわし、何かしらの選択をせざるを得ない。その状況に、積極的にアンガージュマンして、選択し、行動しよう。サルトルの言い分としてはこんな感じです。

 

 そしてこのアンガージュマンが当時のフランスでめちゃくちゃ流行りました。

 なんで流行ったのか、それはだいたいこういうことです。

 「人間は何のために生まれたのかわからない、いや、だからこそ生きる意味は自分たちで見つけるんだ!そのためにはアンガージュマンだ!うおー!俺たちも行動を起こすぞー!」

 そういうわけで、「アンガージュマン」はいろんな人に行動を、とくに政治参加を促す原因となりました。だから「アンガージュマン」は「政治参加」、「社会運動」の意味で使われることもあります。

 政治や社会での「アンガージュマン」の利用は著しく、生きてるからには政治参加しなきゃいけない、社会を変えていかなきゃいけない、という雰囲気は、社会のために役に立たないことをするな、という気風にもつながりました。

 例えば、政治に全く関係のないような文学は、糾弾されるなどしました。イメージだけで言うなら、戦時中の日本みたいなものでしょうか。

 

 ただこの「アンガージュマン」、わりと言葉が独り歩きして、拡大解釈された節もあったみたいです。

 サルトルはたしかに、人間は他者と関わらざるを得ない、何かに参加せざるをえない、というようなことは言ったのですが、政治参加という狭い意味に特化した用語ではなかったようです。

 サルトルとしては、もっと広い意味で「アンガージュマン」を言ったようで、その目的はやはり人間の本質の追究にあったようです。

 

 そういうわけで、サルトルは人間の実存、そしてその本質について問い続けたので実存主義者」と呼ばれています。

 

構造主義 ――レヴィ=ストロース――

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レヴィ=ストロース,2005撮影

 一世を風靡したサルトルでしたが、そんなサルトル実存主義痛烈な批判をあびせたのがレヴィ=ストロースです。

 いったいレヴィ=ストロースサルトルの何を批判したのでしょう。それを理解するためには、まず彼の唱えた構造主義について話さなければなりません。

 

平行イトコ婚に関するインセストタブー

親族の基本構造

親族の基本構造

 

 レヴィ=ストロースは哲学者としてカウントされますが、その大きな功績はフィールドワークに基づく民俗学にあります。

 大学教授としてブラジルに渡ったレヴィ=ストロースは、そこで、ナムビクワラ族やトゥピ=カワイブ族など、その土地の原住民たちと交流を持つことになります。

 ブラジルだけでなく、ほかの多くの民族について調査したレヴィ=ストロースは、そこである法則を発見することになります。

 それが、平行イトコ婚に関するインセストタブーです。

 

 レヴィ=ストロースは、数々の民族を調べた結果、多くの民族で平行イトコ婚が禁止されていることを知ります。

 平行イトコ婚とは、父母と同性の兄弟(姉妹)の子供との結婚のことです。

 具体的に言えば、自分の母親の姉妹(自分から見れば伯母さん)の子供や、自分の父親の兄弟(自分から見れば伯父さん)の子供と結婚することが禁止されているということです。

 逆に、自分の母親の兄か弟の子供や自分の父親の姉か妹の子供は交叉イトコと呼ばれ、その交叉イトコとの結婚は禁止されていません

 

 考えてみれば不思議なことです。

 今でこそ科学技術が発達して、近親相姦でできた子供は遺伝的によくない性質が現れやすい、とわかります。

 ところがレヴィ=ストロースの調査した民族は、科学が発達する以前から平行イトコ婚禁止のルールをもっていたのです

 しかもそれが一つの民族でなく多くの民族で、それもブラジルだけでなく地球全体の民族で適用されていたというのですから驚きです。

 

 そしてこれこそが「構造」というものです。厳密に言えば違うのですが*1、まずは「構造」とは、平行イトコ婚の禁止のような、人間の根底に染み付いた、何か世界の根底にある原則、みたいなものだと捉えてよいでしょう。

 このような「構造」を提唱したため、レヴィ=ストロース構造主義者」と呼ばれています。

 

西洋中心主義批判

野生の思考

野生の思考

 

 前述の通り、レヴィ=ストロースは「構造」を唱えたわけですが、それがサルトルへの批判とどうつながるのでしょう?

 ポイントはレヴィ=ストロースが、未開社会を調査した結果「構造」を発見した、という点にあります。

 簡単に言うと、レヴィ=ストロースサルトル批判は、西洋中心主義批判ということになります。 

 サルトルは「アンガージュマン」することで変えていけるとした歴史は、極めて西洋的に見た「歴史」にすぎません。進歩史観に基づき、順調に進歩しているかのように見えた「歴史」も、西洋の人間にとって進歩した、と言えるにすぎません。

 未開社会もそれはそれできちんと確立していて、また、そこにゆるぎない世界の「構造」を見出したレヴィ=ストロースは、ちょっとやそっとのことで歴史は変えられないと考えたわけです

 

 この西洋による西洋の自己批判とも言えるレヴィ=ストロースサルトル批判は、フランス現代思想の原点とも言えます。

 フランス現代思想は、西洋による西洋批判が一つの根底にあります

 この西洋中心主義批判、言い換えれば西洋の価値観の相対化という姿勢はポスト構造主義へと受け継がれていくことになるのです。

 

ポスト構造主義 ――フーコー――

ミシェル・フーコー伝

ミシェル・フーコー伝

 

 フーコーと言えば、レヴィ=ストロースのような歴史の研究で有名です。フーコーは初め、その歴史の研究において「構造」のようなものを見出していたため、構造主義者と捉えられていました。

 ただそれも初めだけで、後にフーコーポスト構造主義と呼ばれることとなります。

 この転換の理由を知るために、まずは彼の「考古学」の結晶、『狂気の歴史』について見ていきましょう。

 

『狂気の歴史』

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

 

 『狂気の歴史』は、いったいいつから狂気が科学の対象となり、隔離される存在となったのかを探った書物です。

 なぜフーコーは『狂気の歴史』を探ろうと思ったのか、その動機となったかもしれない象徴的な話があります。

 

 ロボトミー手術というのをご存知でしょうか?

 ロボトミー手術とは、日本語で言えば前頭葉白質切截術というもので、端的に言えば、頭のおかしい精神病患者は前頭葉を切り取って治しましょう、という外科手術のことです。

 え、そんなことしても精神病は精神の病気なんだから治るわけないじゃん!と思いますよね?その通りです。現代から見れば傷害罪でしかないこの手術は、フーコーが若いころにはまだ実際に行われていました。

 なぜそんなことが行われていたかというと、当時はまだ精神病が身体的な異常なのか、精神的な異常なのかがはっきりと区別されていなかった、ということが背景にあります。

 要するに、心の病も体の異常から起こっているもので、体をいじれば治るでしょ、と考えられていたのです。

 今で言う精神科医だった若かりし頃のフーコーは、実際にロボトミー手術を施した患者を目の当たりにします。

 それが原因となってかならまいか、フーコーロボトミー手術が本当に有効なのか、精神病は体の病なのか、それを知るために「狂気」とされているものがいつから治療の対象になったのか、いつから精神病棟で隔離されるような存在となったのかを探ることとなります。

 

 こうして『狂気の歴史』をたどったフーコーは、レヴィ=ストロースと同様のことに気づくことになります。

 つまり狂気が狂気とされて隔離されているのは、それが西欧において一般的であるだけだということです。

 結果的に、狂気が病気として認定され、監獄に収容されることとなったのは、人間がそう決めたからにほかなりませんでした

 なんなら中世においては、狂気は神に近づいてしまった証拠などと捉えられていたくらいです。

 科学が、西欧の価値観が、狂気を狂気として隔離したわけです

 

エピステーメー

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

 

  『狂気の歴史』を通して見たフーコーは、狂気が狂気として扱われる原因を、西欧という土地、その価値観に見出します

 そうして考え出されたのが、エピステーメーという概念です。

  エピステーメーとは、その時代、その社会、その人々による価値観の総体、すなわち「知の枠組み」のことです。

 とても雑に言えば、時代とか場所とかによって考え方って違うよね、という話になります。

 『狂気の歴史』を見て、狂気が西欧人にそう認識されているからにすぎないと見抜いたフーコーは、狂気だけでなく、いろんなものごとがそういうエピステーメー(=知の枠組み)」によって認識されているんじゃないか、と考えたわけです。

 

 以上のように「エピステーメー」を唱えたフーコーは、したがって西欧の価値観を相対化した、とも言えます。

 「エピステーメー」は「考え方の違い」、と言えばわかりやすいのですが、フーコーの考えた「エピステーメー」はもっと規模がでかいです

 例えば具体的にフーコーは、16世紀エピステーメー「類似」、17世紀から18世紀のエピステーメー「表象」、19世紀のエピステーメー「人間」などと言っています。言ってることはよくわからないかもしれませんが、その捉え方の広さは伝わるのではないでしょうか。

 

 ただ「エピステーメー(=知の枠組み)」という考えは今でも十分通用します。

 今の社会の価値観だって、この社会の知の枠組みの影響に過ぎないのかもしれません

 フーコーに寄り添った例を挙げるのなら、フーコーの捉え方よりは少し小規模ですが、LGBTの問題がそれに当たります。

 昨今、LGBTの権利の問題が検討され、さまざまな対策がなされています。

 昔ならば考えもしなかった、あるいは禁忌でさえあったような権利、例えば同性婚なども認められつつあります。

 自分自身ホモセクシュアルであったフーコーも、そのような問題にとても敏感でした。

 フーコーは遺作となった『性の歴史』は、そのような様々な性の問題に言及しています。

 また死後刊行されていなかった『性の歴史』第4巻は、セクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ)を告発する『#MeToo(私も)』運動の高まりを受け「この独創的な大作の出版にふさわしい時が訪れた」*2というガリマール社の編集長の言葉と共に、今年(2018)の2月、つい最近刊行されました。

 性の問題が活発に議論される今、フーコーは改めて読む価値があるのかもしれません。

 

 

入門の入門の入門

 今回はフランス現代思想と、その思想について見てきました。いかがでしょうか。

 思ったよりも長くなってしまい、もっと多くの哲学者を紹介しようと思ったのですが、分量的に3人だけになってしまいました……。

 これだとフランス現代思想入門の入門の入門くらいになってしまっていますね……。

 

 ただまあ何となくそういう人がいるんだ、というのはわかっていただけたかもしません。

 かなりフランクに語った代わりに、厳密さはかなり失われてしまったように思うので、その点は申し訳ないです。

 今回はとりあえず学んだことの途中経過、というか中間発表のような感じです。

 

 フランス現代思想、もちろん難解な部分もあるけれど、学ぶところもいっぱいあります。

 興味のある方はぜひ何か読んでみてはいかがでしょうか。

 最後に少し参考になりそうな入門書を載せておきます。

 

 またフランス現代思想を書くことになるなら、今度はジャック・ラカンロラン・バルトジョルジュ・バタイユモーリス・ブランショデリダドゥルーズ=ガタリあたりについて書きたいです。

 とにかく修行あるのみですね。

 

 今回も最後までお読みいただきありがとうございました!

 

<参考文献>

フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)
 
サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)

サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)

 
レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)

レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)

 
フーコー―主体という夢:生の権力 (入門・哲学者シリーズ 2)

フーコー―主体という夢:生の権力 (入門・哲学者シリーズ 2)

 

*1:レヴィ=ストロースは、「構造」について「『構造』とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変換過程を通じて不変の特性を保持する。」(『構造・神話・労働』)、あるいは、「構造というものを語り得るためには、いくつかの集合の要素と関係の間に、不変の関係が出現し、ある返還を通じて一つの集合から別の集合へ移れるものでなければなりません。」(『遠近の回想)と述べている。『フランス現代思想史』岡本裕一朗 著(中公新書,2015)によれば、「構造」に関する定義で注目すべきは、「変換」という言葉であって、「構造」とは「変換」によって不変の関係を保持するものだと言う。「構造」はよく「体系―システム」と混同されるが、「構造」と「体系」の違いはまさにここにある。これを私なりにかみ砕いて説明するなら、「構造」とは、複数ある「体系」がその「体系」同士で「変換」可能な場合に、その複数ある「体系」全体のことを指す言葉である、と説明できる。だから「構造」には「体系」のバリエーションみたいなものが複数あって、しかもそのそれぞれのバリエーションがある一定の規則で「変換」可能でなければいけない。イメージとしては数学の行列だ。4×4の行列が「体系」、その行列に含まれる成分は1とか2とか3とかいろいろ「変換」できる。一応、私の理解の範囲では、そんなイメージである。

*2:フーコー「性の歴史」最終巻、ついに出版へ 死後34年 写真2枚 国際ニュース:AFPBB Newsより引用

『ブルーピリオド』紹介 「ピカソの絵の良さがわかんない」ヤンキー、藝大を目指す

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『響け!ユーフォニアム』考察①カラスノエンドウの多義性

 

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