野の百合、空の鳥

野の百合、空の鳥

アニメ・漫画・文学を「読む」

このアニメPVがすごい2019冬

ようこそアニメPVの世界へ

ギルティクラウン』はPVが一番おもしろい。

 

本編もたしかにおもしろいところはおもしろかったけれど、PVが一番わくわくしたし、一番おもしろそうと感じました。

 

やっぱりそのアニメを作った人たちが、本気でプロモーションするために作っているだけあって、アニメPVの中にはそれ単体ですごく面白いものもあります。

 

短編にそのアニメの魅力がふんだんに盛り込まれたPVは、大げさに言えばそれ自体が芸術です。

 

今回はそんなアニメPVの魅力をみなさんにも伝えたいと思い、「このアニメPVがすごい2019冬」と題して、今期(2019年冬)のアニメPVのTOP5を紹介します。

 

「個人的に」とはいえ、一応以下のような評価基準を設けましたが、「いいからランキングだ!」という方は目次からランキングにお飛びください。

 

評価手順と基準

手順

  1. うずらインフォさんが作製しているテレビアニメ一覧画像を参考に、今期新たにスタートするアニメのPVを視聴する。うずらインフォさんのテレビアニメ一覧画像にない作品や継続枠、再放送枠のアニメは除外する。
  2. " PV " と題されたものが複数ある場合は、そのすべてを視聴し評価する。" PV " と題されたものがない場合は、それに準ずるもの(テレビCM、番線CMなど)を見て評価する。PVに準ずるものも存在しない場合は、無効とする。
  3. 「絵」、「音」、「構成」、「期待度」の4つを基準に点数をつける。(評価基準は以下)
  4. 点数が多い順にランキングにすし、(同点の場合、同順位とする)上位5PVを選抜する。

 

基準(すべて五段階評価)

  • 「絵」……作画はもちろん、動画もこの項目に含めて評価する。アニメにはそれぞれの絵柄があるので、絵の安定度を重視する。
  • 「音」……音楽全般を評価する。BGMはもちろん、OPやEDも評価対象とする。音楽それ自体の価値を評価するのは難しいので、音をかけるタイミングや大きさやバリエーションなどを重視する。
  • 「構成」……PVの構成力を評価する。場面の並び順やセリフのチョイス、どういう物語なのかの要約力などを見る。
  • 「期待度」……PVを見て、どれくらいこのアニメを見たいと思えるか評価する。なるべく客観的にどれだけアニメに引き込ませようとしているかを判断したつもりですが、だいたい主観です。ご容赦ください。

 

このアニメPVがすごい2019冬

第五位 『ブギーポップは笑わない』 ティザーPV

www.youtube.com

絵……★★★★★

音……★★★★☆

構……★★★★☆

期……★★★☆☆

総合点……16点

 

<コメント>

抽象度が高く、セリフは全くなく、どういうアニメなのかこれだけ見て判断するのは難しいが、絵がよく動いており、背景も安定していて芸術点が高い。

そのためこのアニメを見たい!という期待度は高くないが、PV単体でよく味わってみられるといういう意味でこの点数。

 

第四位 「かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦」第2弾PV

www.youtube.com

絵……★★★☆☆

音……★★★★★

構……★★★★★

期……★★★★☆

総合点……17点

 

<コメント>

お手本のようなアニメPV。

BGMと淡々としたセリフでテンポがよく、緩急もあり、主題歌の入りも完璧。

ときおり入る文字のカットインも効果的。

アニメの雰囲気もわかり、このPVだけでも楽しい気持ちになれる。

 

第二位 「賭ケグルイ××」PV

www.youtube.com

絵……★★★★★

音……★★★★★

構……★★★★★

期……★★★★☆

総合点……19点

 

<コメント>

 序盤で舞台背景を示しながら、2クール目の展開も予期している点でポイントが高い。

音の緩急も心地よく、テンポもよい。

加えて早見さんや沢城さんの演技が気持ちよい。

最後にOPやED、原作の宣伝を思いっきりぶっこんでくるPVは珍しく感じた。

 

第二位 「revisions リヴィジョンズ」本PV

www.youtube.com

絵……★★★★☆

音……★★★★★

構……★★★★★

期……★★★★★

総合点……19点

 

<コメント>

3DCGのアニメーションをどう評したらよいのか難しかったけれど、とくに支障はないし、ぬるぬる動く。

ただしそこまで加点でもないかもしれないと判断して★4つ。

PV自体はとてもわくわくするつくりになっており、ぜひ見てみたいという気持ちになる。

主人公たちが登場しているあれをISと言ってはいけない

 

第一位 「モブサイコ100 Ⅱ」 第2弾PV

www.youtube.com

絵……★★★★★

音……★★★★★

構……★★★★★

期……★★★★★

総合点……20点

 

<コメント>

文句なしで満点。

これだけでめちゃくちゃおもしろい。

もうすんごい見てる。おもしれ~ 

 

モブサイコⅡに関しては第2弾だけでなく第1弾PVもすごくよかったので見てほしい。

www.youtube.com

 

可能性が広がるアニメPV

いかがでしたでしょうか。

 

評価基準を設けても、結局ほぼ独断と偏見になってしまった気がします。すみません。

 

やってみての感想としては、やはりアニメPVはそれ自体でおもしろいし、見るか否かの指標にも充分なりそうだと思いました。

 

それから、やはり有名どころがつよいなあという感じがしました。

 

人気作や有名なスタッフがいる作品だと、投じられている予算も多いのか、質が少し違うなと感じました。

 

そういうところが、良いPVをつくるアニメは良い作品になるという相関関係に、もしかしたらつながるかもしれません。

 

これについては一概に言えないと思うので、今期が終わったらまた考えてみたいと思います。

 

気が向いたら次クールでもやるかもしれませんが、やる際にはもう少し評価基準などをしっかりできたらと考えています。

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

P.S. 予告より1週間はやく更新してしまったので、次回はまたこれから2週間後の更新にしたいと思います!

次回更新日について<追記>更新してしまいました!すみません!

みそかの更新をはさんだので不規則になってしまったのですが、次回の更新は1/19(土)にしたいと思います。

お待たせして申し訳ないです。

その代わりと言ってはなんですが、本年も質の高い記事をご提供できるように頑張ってまいります!

2019年もよろしくお願いいたします。

 

<追記>

予定よりもはやく更新できたので一週間早いですが更新してしまいました!すみません!

 

また次回の更新は二週間後、1/26(土)としたいと思います。

 

よろしくお願いします!

2018年をふりかえって

2018年をふりかえって

今年もおしまいですので、何かご挨拶をと思い、書き始めた次第です。

 

このブログは、ダリフラとともに始めたので、もう約1年になろうとしているんですね……今数えてびっくりしました。

 

以前思っていたことを発信できずに悔しかったという思いと、実行にうつさないと何も始まらない!という勢いで始めたこのブログでしたが、おかげ様でたくさんの方々に読んでいただけて、ここまで続いております。

 

今回はこの一年を、すこしだけふりかえってみたいと思います。

 

考察(批評)とはなにか ――ダリフラ以前――

細かい反省などは以前の記事に書いたのですが、このブログとダリフラとは切っても切れないと思うので、少しこのことに言及しておきたいです。

 

今改めてふりかえると、やっぱりやって良かったという思いもつよいのですが、反省すべき点も、あとからいろいろと自分の中に出てきています。

 

一言でまとめると、「考察(批評)とはなにか」、という言葉にまとまる気がします。

 

例えばダリフラを見たときに、私はいろいろな想像をふくらませて、いろいろな可能性に言及したのですが、言ってしまえばそれは「制作側」の意図していないことであったり、勝手な想像であったりしてしまうこともあるわけです。

 

もちろんそれが無意味だ、ということもあるし、「制作側」が意図していなくてもそれ自体で筋が通っているしおもしろいからいいだろう、ということもあるでしょう。

 

要するに、どこまでが「考察(批評)」で、どこからが「自分勝手な想像(妄想)」なのか、その線引きが難しいのです。

 

その線引きというのは、ある程度までいくと、自分でなくて他者がするものではないか、となんとなく今は考えています。

 

例えば小説や絵画などは、絵によって様々な考察(批評)がなされるわけですが、どの考察(批評)が有効(有益)で、どの考察(批評)が無駄(無益)なのか、というのはその考察(批評)を見る人によって決まるような気がします。

 

もちろん考察は感想とは違うのだから、妥当であるとか妥当でないの線引きはあるにしても、それ以上の価値は他者が決めるものなのかもしれないと考えています。

 

当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、ダリフラの考察を通して改めて考察(批評)の難しさを感じました。

 

「考察(批評)とは何か」という問題は、これからも考えていきたい問題です。

 

これからの活動――ダリフラ以降――

そんなことを考えながら、ダリフラ以降もアニメや漫画、小説などいろいろな考察してきました。

 

やっぱりその根底にあるのは、自分なりの読みを提示して、それをとっかかりに読者の方々が様々な作品を楽しんでいただけたらよいな、という思いでした。

 

これからもその姿勢は崩さずにやっていけたらなと思っています。

 

おそらく2019年には、このブログにそこまで大きな変化はないでしょうが、これまで通り、いろいろな観点から、いろいろな記事を書けたらなと思っております。

 

とくに、アニメの考察は時間も手間もかかり、題材も少ないのであまりできていないのですが、アニメの考察をもっと頑張っていけたらと思っています。

 

2019年もよろしくお願いします

簡単な挨拶で済ませようと思ったのですが長くなってしまいました、許してください。

 

なんか挨拶だけだと物足りないと思ったので、2018年のアニメーションの話でもしようと思ったのですが、無になってしまいました。

 

けっこうたくさん見たかもと思っていたのですが、数えてみたら少なかったし、残念ながら熱心に見られたアニメも少なかったという印象です。

 

記憶に残っているのは、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが綺麗だったこと、イナイレ6話で爆笑してたことと、BANANA FISHがエモだったこと、ペルソナ5最終回のOPがスーパーウルトラハイパーかっこよかったこと、青春ブタ野郎~がココロコネクトの強化版だったこと、ジョジョ5部の出来がとても良いこと、くらいでしょうか。

 

意外とありましたね。

 

アニメーション、大好きなので頑張ってほしいです。

 

 

それではみなさん、2018年はおしまいです。

 

ありがとうございました。

 

2019年です。

 

これからもよろしくお願いいたします。

カフカ『変身』考察 ――カフカから読むカフカ――

カフカから読むカフカ

『変身』という作品をご存知でしょうか?

 

ある朝目覚めると、自分が「虫」に変身してしまっていたという、フランツ・カフカのショッキングな小説です。

 

外国文学としてはかなり有名で、名作との呼び声も高い『変身』ですが、その一方で「難解」だと言われることもあります。

 

「難解」というのはカフカの小説全般に言えることですが、『変身』の場合はとくに「虫」とはなんなのか? 結局何が言いたいのか? など、読了後にが残ることが多いようです。

 

そのため『変身』については古今東西さまざまな解釈(考察)があるのですが、今回はその『変身』の解釈、考察をしてみたいと思います。

 

以前の記事で私は、作品が作者の想定外の効力を持ちうるという「作者の死」という考え方や、物語はそこに書かれたこと自体を重視して読むべきだという「テクスト論」を紹介しましたが、今回はあえて筆者(=カフカ)に寄り添って『変身』を「読んで」みたいと思います

 

それは一言でまとめると、カフカから読むカフカという試みになります。

 

あらすじ

www.youtube.com

あらすじとしては、上の動画を見るのが一番てっとり早いと思います。

 

フランツ・カフカ Franz Kafka 原田義人訳 変身 DIE VERWANDLUNG

ただもちろん、いつも通り本文を読んでもらった方がわかりやすく、理解も進むと思うので、無料で読める青空文庫へのリンクも貼っておきます。

 

変身 (カフカ) - Wikipedia

また文字媒体で読めるわかりやすいあらすじが Wikipedia にあるので、そちらもリンクを貼っておきます。

 

それではさっそく考察を始めましょう。以下では本編全体にわたるネタバレを含むので、上のあらすじのいずれか(もしくはすべて)を見てからお読みになることをおすすめします

 

考察

「虫」とは何か?

いきなり本題からいきましょう。『変身』の「虫」は何を意味しているのでしょうか?

 

ある朝突然「虫」に変身してしまった主人公のグレゴール・ザムザは、周りから気持ち悪がられ、最終的には家族にも捨てられてしまい、孤独に死んでゆきます。

 

要するに、グレゴールは「虫」という気持ちの悪い見た目の存在に変わってしまったことが原因でそういう不条理な目にあったのだ、と考えることもできるわけです。

 

そう考えるなら、例えば、「虫」=醜いものの象徴、という解釈ができます。

 

この場合、『変身』という小説は、どんな人でも「醜いもの」に変わった瞬間、周囲からの反応も冷たくなり、家族からですら見捨てられてしまうから、見た目って大事だよね、という教訓めいた小説ということになります。

 

たしかに、周囲の反応はグレゴールが「虫」に変身したことに起因していますし、そのような解釈もアリと言えばアリな気がします。

 

しかしカフカ」に寄り添って考えてみると、もう少し別の解釈もできそうなのです。

 

表紙に「昆虫そのもの」を書いてはいけない?

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『変身』初版

『変身』の挿絵について、カフカは一見妙な注文をつけています。

 

その妙な注文とは、「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」*1というものです。

 

このカフカの注文の結果、『変身』の初版本には、上の画像のような暗い部屋へと通じる扉と目を覆いながらそこから離れてゆく男が描かれました。

 

カフカのこの注文から、「虫」に関していくつかのことが読み取れます。

 

まず「昆虫そのものを描いてはいけない」という注文から、「虫」についてカフカ何か具体的な「昆虫」をイメージしてほしいわけではなかったのではないかと推測できます。

 

要するに、『変身』の「虫」は、ゴキブリとかムカデとかカブトムシとか、そういう具体的な虫のことではないと考えられるのです。

 

ということはつまり、「虫」とはもっとより抽象的なものを指しているのではないかと考えられます。

 

以上のことを踏まえると、先ほどの「虫」=醜いものの象徴という解釈は、少しずれているように思えます。

 

なぜなら、「虫」を物理的に醜いものとして描きたいのなら、表紙には「昆虫」でなくとも、何かしら醜いものが描かれてもよいのではないか、と考えられるからです。

 

そもそも日本語で「虫」と訳されているそれは、原文のドイツ語では "Ungeziefer" であって、これは動物や菌なども含む「有害なもの」を指す言葉です。

 

それを踏まえて考えてみると、やはり「虫」はもう少し広い意味を持つのではないかと予想することができます。

 

では結局「虫」とは何なのか。

 

それを知るには、もう少し『変身』を読み込む必要があります。

 

「虫」はなぜのけ者にされたのか?

そもそもなぜ「虫」はのけ者にされたのでしょう?なぜリンゴを投げつけられ、最後には妹に「あいつはいなくならなければならないのよ」とまで言われなければならなかったのでしょう?

 

その理由は、「虫」に変身して醜くなったから、というだけではありません

 

先に結論を言ってしまえば、「虫」は家族の役に立たないから、ひいては人間の役に立たないから、のけ者にされたと考えられます。

 

『変身』の物語自体を読んでもこのことはわかるのですが、ここをカフカの身の上と重ねて読んでいくと、より説得力が増すように思われます。

 

役に立たない「虫」と役に立たない「カフカ

経済的問題が発生するように意図的に描かれている?

グレゴールが「虫」に変身してしまうことによって、家族には様々な影響を及ぶことになりますが、「虫」への変身が及ぼした影響の中でも大きいのは、一家の稼ぎ手が減ることだったと言えます。

 

そもそも冒頭の場面も、カフカ仕事の出張に赴かなければいけない朝であり、結果的に仕事に遅れてしまい、支配人が訪ねてくるという場面でした。

 

また一家は多額の借金を背負っており、カフカが「虫」となり役立たずになってからは父と母が仕事を増やし、さらには部屋を間借りさせるという展開にもつながるのでした。

 

こう見ると、カフカが「虫」になってしまったことで家族が一番困ったのは、稼ぎ手が減ったことだと言ってもよいかもしれません。

 

以上のように見ると、『変身』ではそのような一家の経済的事情が問題となるように意図的に描かれているようにも思えます。

 

そしてここから、カフカの身の上と同様の問題が見えてきます。

 

「失業者志望」カフカ、父との確執

カフカの家は決して貧乏であったわけではありませんでした。むしろ裕福と言ってもよいのかもしれません。

 

それはカフカ父ヘルマンが、高級小間物商として成り上がった実業家であったことに起因しています。

 

ところがそのように父が労働を重んじる実業家であったことこそが、カフカとの間に軋轢を生むことになります。

 

例えば、大学で哲学専攻を希望したカフカに対し、父ヘルマンは「失業者志望」と冷笑したというエピソードがあります。

 

文学の道を志したカフカを、父ヘルマンは労働に縛り付け、彼らは生涯対立することになります。

 

またカフカを苦しめたのは父だけにはとどまりませんでした。

 

科学を発展させ、労働を効率的に行った人間の理性を信奉する近代社会の時代背景や、労働を重んじるユダヤ人の血統も、カフカに様々な葛藤を抱えさせることにつながりました。

 

その葛藤とは端的に言えば、「役に立つこと」「役に立たないこと」の間の葛藤だと言えます。

 

当時の時代背景も、血筋も、そして父も、カフカに要求しているのは労働や結婚といった「(人間にとって)役に立つこと」であって、文学や哲学といった「役に立たないこと」ではなかったのです。

 

そのような環境下で、カフカは半官半民の「労働者傷害保険協会」を務めて8時から14時まで労働し、労働を終えた夕方からは小説を書く(ときに夜通し原稿を書くこともあったらしい)という「役に立つ」生と「役に立たない」生の両方を生きていったのでした。

 

「虫」=「(人間にとって)役に立たないもの」

以上のようなカフカの身の上を考えると、「虫」はカフカの「役に立たない」側面に重なります

 

「虫」になって労働もできず、人間としての生活もままならなくなったグレゴールは、まさに「(人間にとって)役に立たないもの」だと言えます。

 

そのようにカフカに寄り添って考えると、結局「虫」とは「(人間にとって)役に立たないもの」だと解釈できます

 

役に立たないからこそ「虫」は、家族から煙たがられ、のけ者にされていき、ときに傷つけられ、最後には孤独に死んでゆくのです。

 

『変身』でカフカは何が言いたかったのだろう?

なるほど「虫」とは「(人間にとって)役に立たないもの」だと解釈できるのかもしれない。

 

でも、そうだとすると何のなのでしょう?結局、カフカは『変身』で何が言いたかったのでしょうか?

 

「虫」が「役に立たないもの」を表しているとしたら、『変身』は「役に立たないもの」が排除されていくことへの嘆き、あるいは「役に立たないもの」が排除されることへ警鐘を鳴らしていると考えられるのではないでしょうか。

 

そもそも「役に立たない」とは何にとって「役に立たない」のかというと、それは「人間にとって役に立たない」という意味だと考えられます。

 

「虫」は働かず、家にお金を入れないから「役に立たない」し、人間の姿でもないから家族をなぐさめる「役にも立たない」と言えます。

 

文学を熱心に行っていたカフカは、この「虫」と同じ気持ちになっていたのではないでしょうか。

 

文学を志すカフカは、労働をするよりお金にならないという意味で「役に立たない」し、小説を書いてもたくさんの人間の「役に立つ」とは限りません

 

むしろ、その時代の風潮やユダヤ人の血統から言えば、絶望や孤独、不条理を描き人間社会には何の役も立たないカフカの小説は、排除される対象ですらあったと言えます(カフカの死んだ後ですが、実際にカフカの小説は「焚書にすべきかどうか」議論されることもあったそうです)。

 

ではそのように「役に立たない」文学はやってはいけないのでしょうか?小説は書いてはいけないのでしょうか?

 

小説を書くことが好きだったカフカにとって、それが「役に立たない」と一蹴されてしまうことは我慢ならなかったのではないでしょうか。

 

だからカフカは『変身』を通して訴えかけているのかもしれません。「虫」は人間にはみにくく見えるかもしれない。でも「虫」自身は人間に悪事を働こうとは思っていないし、ただそこで自分なりに必死に生きているのだ、と。

 

「役に立たない」って何だろう?

今回はカフカから読むカフカと題し、『変身』を考察しました。

 

作品は作者の手を離れた途端、生き物として解釈の多様性を生むと私も思いますが、筆者に寄り添って考えることも、ときには必要なのかもしれません。

 

というか結局「筆者」というのも、私から見た「筆者」であり、それは決して筆者それ自体にはならないので、「筆者」はどこまでいっても筆者にとっての他者なのかもしれません。

 

今回は一応そのようなスタンスで考察したのですが、『変身』自体まだまだ考察の余地があり、今回の内容自体もとくに中間で具体的な参考資料をはぶいたので、少し説得力に欠けていたかもしれません。

 

ただ伝えたかったことは書けたかなと思います。

 

「役に立たない」って何でしょうか。

 

「役に立たない」ことを、私がとくに意識するのはノーベル賞、とくにノーベル物理学賞を受賞された方にニュースキャスターなどがこうインタビューするときです。

 

「その研究は何の役に立つんですか?」と。

 

もちろん、役に立つことは大切です。

 

役に立つことを追究した結果、人間は文明を享受できているし、便利な生活を送れています。

 

電気、水道、ガス、役に立つことが失われたら、人間生活は営めません。

 

「役に立つ」こと、大いに結構。「役に立つ」ことが大好きな人は、本当にそれはそれで頑張ってほしいと思います。

 

しかし「役に立たない」ことも、ときに大切なのではないでしょうか。

 

物理や医学の基礎研究は将来の研究につながるという意味で有用であったり、文学や哲学も誰かの心を動かすことができるのではないでしょうか。

 

そして何より、物理も医学も文学も哲学も、そのほかの「役に立たない」ことも、それ自体が楽しかったり、おもしろかったりするものではないでしょうか。それ自体に価値があるのではないでしょうか。

 

「役に立つこと」は大切ですが、それを絶対視したり、誇示したりしている様子を見ると、私はすこし悲しくなります。

 

結婚を何回も破棄するなど、カフカにも人間世界から見てどうしようもない側面もあったかもしれないけれど、文学を志したカフカ、それを貫いたカフカには共感できるところもあります。

 

他にもカフカのいろいろな側面が『変身』から読み取れるかもしれません。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

また更新日が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。私は元気ですので、これからも楽しく、記事を書いていきたいと思います!

 

変身 (角川文庫)

変身 (角川文庫)

 

*1:変身 (カフカ) - Wikipedia参照。申し訳ないのですが、紙媒体ではこの記述を見つけられませんでした。この情報の出典をご存知の方は、コメントの方に記入していただけると幸いです。

本日の更新延期について

本日ブログ更新日なのですが、申し訳ないことに今日は更新できそうにありません。来週中に今日の分の記事をあげたいと思います。

 

申し訳ありません。よろしくお願いします。

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて

僕が「赤」だと思っているその色は、実は「青」?

具体的な話からはじめよう。

 

こんな話を聞いたことがないだろうか?

 

僕はいつもリンゴを見て「赤」だと思っているけれど、君はそのリンゴを僕が「青」と認識する色で見ている可能性がある、という話だ。

 

このとき、君にはリンゴが僕の言う「青」という色で見えているけれど、君はそれを「赤」と呼んでいる。そして僕もそれを「赤」だと言うから、そこには齟齬は生じない。

 

そしてこれは僕と君の間だけの問題ではなく、すべての人の問題かもしれない。実はリンゴがみんなそれぞれ違う色に見えている可能性がある。でも誰も他人にはなりようがないから、それを「赤」と呼ぶ限り、誰にもほんとうのところはわからない

 

これは有名な話だから、どこかで聞いたことがあるかもしれない。哲学のことばで言うのなら、これは「逆転クオリアと呼ばれる思考実験に近い。クオリアというのは主観的に感じる感覚の「質」のことだけれど、「逆転クオリアでは例えば、色覚のとが入れ替わっている(逆転している)ことが想定される。

 

今日僕がしたいのは、この「逆転クオリア」と似たような話だ。でも僕がしたいのは「感覚」の話じゃない。「言葉」の話だ。

 

先に要点を言っておくと、この「逆転クオリア」と同じようなことが「言葉」の次元でも起きているんじゃないか、もしそうだとしたら、「言葉」は無力だし、あるいは有力とも言えるんじゃないか、と、そういうことになる。

 

今日はそういう話をするから、アニメや漫画の考察を期待していた人には申し訳なく思う。だけどこれはとても大切な問題だ。アニメとか漫画とか小説とか、その根本にある「言葉」の問題だ。きっと生涯無関係でいられるけれど、絶対どこかでみんなに関係している問題だ。大切なことだから、今日はすこし僕の考えを聞いてほしい。

 

問題意識はどこにある?

どうして僕がこんな「言葉」のことを問題にするのか、それを初めに語った方がわかりやすいだろうから、そのことを話そう。

 

これについては僕の以前のツイートがわかりやすいからそれを貼ることにする。

例えばそういうことだ。

 

あるいは、もっとわかりやすい次元の話から始めてもよいかもしれない。

 

例えば、僕が「頭が痛い」と言ったとしよう。君が「どれくらい痛いの?」と聞くと、僕は「足の骨を折ったときくらいの痛みだよ」と言ったとする。もし君が足の骨を折ったことがあるなら、「そうか、それは痛いだろう。お気の毒に」と言うかもしれない。

 

でもちょっと待ってほしい。頭の痛みが、足の骨の度合いではかれるだろうか?あるいは僕の痛みが、ほんとうに君に理解できるだろうか?痛みの度合いなんて、人それぞれではないのだろうか?

 

つまり「痛い」と一口に言っても、その「痛み」は人それぞれだし、君は僕になれないのだからその「痛み」の程度なんて知りようがない。あるいは逆に、僕も君になれないから、君のほんとうの「痛み」なんて知りようがない。

 

一言で言えば、「痛み」なんて人それぞれということだ。

 

このことからまず、「言葉」は無力だ、ということが言えそうだ。なぜなら、「痛み」の程度なんて人それぞれで、ほんとうの「痛み」は理解しようがないのだから、「痛い」という「言葉」を使ったところでほんとうのことは伝わらないからだ

 

この「痛み」の例では、そういうふうに、ほんとうの感覚なんて伝わりっこないというレベルで、「言葉」は無力だ、と言える

 

でももちろん、これに反論することもできる。

 

だって、ほんとうの感覚なんて伝わりっこない、とは言っても、僕が「痛い」と言わなきゃ、僕が「痛い」と思っていることが君には伝わらないからだ

 

要するに、言わなきゃわからないこともある、ということだ。僕が「痛い」という言葉を使わなければ、君は永遠に僕が「痛い」ということには気づかないだろう。

 

この意味で、言葉は有力だ、と言える。つまり、ほんとうのところは伝わらなくても、「言葉」があることではじめて相手に感覚が伝えられるという意味で、「言葉」は有力だと言える

 

おおよそ以上のようなことが、僕が問題にしていることだ。ある意味では「言葉」は無力だし、ある意味では「言葉」は有力だ、ということだ。

 

だけど事はそう単純じゃない。事はもっと複雑だ。

 

箱の中のカブトムシ

さっきの「痛み」の例で言うと、「言葉」が無力か有力かで言えば、僕は正直「有力」の方に軍配が上がるのではないかと思う。

 

僕は今回どちらかと言うと、「言葉」の無力さの方について書きたいと思っているから、有力さの方は放っておきたいのだけれど、なかなかそうもいかない。

 

なぜなら言葉はやはり有力だからだ。僕は「言葉」が無力だと思っていると同時に、同じくらい有力だとも思っている。今回は無力さに少し傾けて書くけれど、僕が同じくらい「言葉」は有力だと思っていることは、きちんと強調しておきたい

 

例えばさっきの「痛み」の話で言うと、やっぱり「痛い」って言うことは大事だ。とくに目に見えない部分、例えば胃とか頭とか、そういうものの痛みを伝えるとき、「痛い」って「言葉」はとても大切になる。

 

だから、言葉が無力だという主張に対しては、「ほんとうの痛み」はたしかに誰にもわからないけれど、そんなこと言ってたらどうしようもないし無意味だ、という反論もある。

 

例えばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという人が、そんな反論をした人の一人だ。

 

例えば彼は「箱の中のカブトムシ」という思考実験で、私的言語=他人には伝わらない完全に私だけの言語、つまりここで言うところの「ほんとうの痛み」を否定している。

 

「箱の中のカブトムシ」とは、以下のような思考実験だ。

  1. ある共同体に属する人々が、みんなおのおの「カブトムシ」の入った箱を持っているとする。
  2. ただしそのとき、誰も他人の箱の中を覗くことはできず、みんなはそれぞれ自分の箱に入ったカブトムシを見ることによってのみ、カブトムシが何であるかを知る。
  3. この共同体の人々が「カブトムシ」という言葉を使っても、それは何も指し示さない。なぜならそれぞれの人の箱に入っているものは、全く異なっている場合もあるし、それが常に変化していたり、箱の中が空だったりすることもあるからだ。
  4. だから結局、「カブトムシ」という言葉はその共同体において通じるけれど、おのおのの箱の中身は全く関係ない。*1

こうしてウィトゲンシュタインは、私的言語を否定しているが、「カブトムシ」を「痛み」で言い換えると、さっきの話になる。

 

つまり人々はおのおのでそれぞれ異なった「ほんとうの痛み」を抱えているけれど、「ほんとうの痛み」がどのようなものであるかは、公的なコミュニケーションをとる上では全く無意味だということになる。

 

確かにそうだろう。

 

だって、「俺のほんとうの痛みはお前の思っている1000倍は痛いんだ!もっとやさしくあつかえ!」などと言っても、「いや、お前のほんとうの痛みなんてわからん。もしかしたら俺の思っている痛みの方が痛いかもしれないだろ」となるからだ。

 

でもその「ほんとうの痛み」を、公的コミュニケーションをとる上では無意味だ、と単純に切り捨ててよいのだろうか?

 

僕が感じているこの「痛み」は、誰のものでもないこの「痛み」は、切り捨てられてよいのだろうか?

 

差延

 やっぱり事はそう単純じゃない。

 

僕が感じる「ほんとうの痛み」は、「痛い」という「言葉」によって意味を捨象されてしまっているかもしれないからだ

 

もっと簡単に言うとこういうことだ。

 

僕が「痛い」といったとき、君が「痛い」という言葉で想像するその「痛み」をはるかに絶するくらいものすごく僕は「痛い」と感じているかもしれない、ということだ。

 

でもだったら「ものすごく世界一痛い」とか言えばいいだろ、とそういうことになってしまう。だからこの場合、「痛み」という例はふさわしくない。

 

例を変えよう。このとき挙げる例は「言葉」にしにくいものであるほどよい。

 

例えば「好き」という感情を例にとってみよう。

 

僕が君のことを「好き」と言ったとき、君が僕の「好き」を友達として好きだと解釈したなら、僕がほんとうに思っていた恋人以上の「好き」という気持ちは切り捨てられてしまう。

 

あるいはちょっと違う種類の例で、「犬」というのを考えてみよう。

 

君が「うちの犬がね、死んじゃったの」と言い出したとしよう。そうすると僕は(かわいそうに……)と思うかもしれない。でもそのとき、ほんとうに君が思っているような悲しみは伝わってこない。君がほんとうに思っている、君の飼い犬に対する愛着、長年一緒に過ごしてきてはぐくんだ愛情、やわらかい毛並み、あたたかな体温、そういうものは全部「犬」という「言葉」にした瞬間、すべてそぎ落とされてしまう。

 

この意味で、「犬」という「言葉」は、君が思い描いているいろんな意味を捨象してしまう。

 

こういう風に、ときに自分が思い描いているものごとと、書かれた「言葉」にはある種のギャップが生じる。このギャップを、ジャック・デリダ差延*2と呼んだ。

 

デリダのすごいところは、この「差延」が「痛み」のような個人個人の感覚(クオリア)だけでなくて、「言葉」のすべてにおいてあるんじゃないか、と言ったところだ。

 

デリダの言わんとするところは、少し雑に言ってしまえば以下のようなことだ。

  1. 私たちが思い描いていることは、人それぞれ全くことなるかもしれない。
  2. しかし我々は「言葉」を介してしか、思い描いていることを共有できない。
  3. つまりみんながどんなに違うことを思い描いても、結局は「言葉」に回収されて、絡めとられてしまう。

デリダの「差延」は、さっき言ったようにすべての「言葉」において成り立っているから、例えばそれは感情や感覚だけでなく、物理的な事物においても成り立つはずだ。

 

例えば僕が「電車」と言ったら君は何を想像するだろうか?山手線のあの緑色の電車だろうか?あるいは京浜東北線のあの水色の車両だろうか?

 

結局、僕や君がどんなイメージを思い浮かべたとしても、「電車」という書き言葉にしてしまうと、絶対にそのイメージと「電車」という書き言葉の間には差異が生じてしまうだろう。

 

デリダはそういうことを問題にした。

 

僕もそういうことを問題にしているのだけれど、とりわけ僕が問題として意識しているのは「人間」に関することについてだ。

 

「言葉」では表しきれない関係

話は一周する。

 

もう一度僕のツイートを見てほしい。

今まで読んできた人ならば、僕の言っていることがより伝わるのではないかと思う。

 

上のツイートの場合は「恋愛」という言葉の無力さ男女の関係について述べているけれど、もちろん他の関係でも同じことが言える。

 

例えば男同士がくっついていたり、多くの日々を一緒に遊んでいたりすると、「ゲイ」と言われることがある。

 

この場合は、完全なる誤解なので、少し事情が異なるけれど、同じような問題が生じる。

 

もしも仲の良い男同士が「ゲイ」だと言われたなら、そのときそこにあるはずの友情や、友愛や、絆、言い難い関係というのは「ゲイ」と言われることでそぎ落とされてしまうのではないだろうか。このとき、その関係性を的確に表現できない「言葉」は無力だと言える。

 

また、この場合はもっとより大きな問題も生じる。

 

「ゲイ」という言葉で君は何を想像するだろうか?「ゲイ」という言葉は、ときにそこに肉体関係があることを想起させることもある。

 

もしも「ゲイ」という言葉がそのような作用を発揮したなら、それは当人たちを傷つけることにつながるかもしれない。そのとき「言葉」は無力を通り越して、ある意味で「有力」な刃物になる。

 

そのように考えれば、「言葉」が関係性を表すのにいかに「無力」であるか、そしてときに危険な「無力さ」を示すかがわかってもらえるだろう。

 

「ゲイ」の例は誤解だし極端だけれど、それと同様のことで、「言葉」の無力さが、人間の関係を形容することに失敗し、ときに人を傷つけるというのはほかにもあるのではないだろうか。

 

「言葉」では表しきれない感情

あるいは「言葉」の無力さと有力さについては、「言葉」が感情を指し示すときに顕著だ。

 

例えば「エモい」という「言葉」がある。ある、というか誕生した(?)の方が正しいのだろうか。

 

「エモい」が語彙力低下の象徴である、というような話を最近聞いた。それはたしかにそのような側面もある気がする。個人的な感触では、やっぱり読書量の減少が語彙力を低下させる要因になっている気がしないでもない。

 

しかし「エモい」という言葉は、ポジティブに捉えれば、「言葉」の有力さを示す例だと言える。

 

例えば「エモい」という言葉でしか表現できない感覚、感情があるとしたらどうだろうか?「エモい」という言葉は、既存の、例えば「うれしい」とか「きもちいい」とか「興奮する」とかそういう「言葉」で表現すると取りこぼしてしまうような感情を拾っているのではないだろうか

 

完全に個人的な感覚の話だが、僕は「エモい」という言葉を、そういう、「エモい」でしか表現できないなんかわかんないけど脳汁が出るような言いようのない感覚を味わったときに使っている。

 

あれ……そういうふうに言葉にできている時点で「エモい」は言いようのある言葉になってしまうのか……?

 

しかしでも「興奮する」とか「うれしい」とかで今まで捨象されていた感覚を、「エモい」が少しでも拾っているのなら、やっぱり「言葉」は有力だとポジティブに捉えられるのではないだろうか。

 

「言葉」では表しきれない「人間」

「エモい」という「言葉」は有力かもしれないけれど、やっぱり僕は言葉の無力さを感じることの方が多い。

 

まとめてしまうと、それはやっぱり「言葉」が「人間」を形容するときに特に感じる。

 

最近思うのは、それぞれ固有の、みんな違うはずの「人間」が、どうして「大きな主語」でまとめられてしまうのか、ということだ。

 

例えば、ついったらんど*3に存在する似非「フェミニスト*4という人々がそれに当たる。

 

彼ら彼女らの一部は、なぜか主語を「男は~」という「大きな主語」にしてしまう。 

 

そうするとその「大きな主語」にくくられない「少数派の男」が、それに反駁する。しかしその「少数派の男」とやらも、「女は~」という「大きな主語」を使いだして、さらに反駁される。そうして不毛な議論が日夜繰り広げられている。

 

もちろん、科学的に「男性的な傾向」、「女性的な傾向」というのは存在するかもしれない。しかし「すべての」男性、「すべての」女性に当てはまる普遍的な規則は存在しえないだろう。

 

もちろん、何か議論を円滑にすすめるために、どうしても「大きな主語」を使わなければならないときもある。しかしすべてを一緒くたにまとめてしまう「言葉」の暴力は、無力さ有力さ以前の問題であるように思う。

 

そのような問題は別として、より小さなレベルで、「大きな主語」にからめとられてしまっている「人間」がいるように思う。

 

可能性としては、きっとLGBTなど、かつてマイノリティとされて人々がそれにあたるのだろう。

 

例えばさっき例に挙げた「ゲイ」という関係、あるいは「人間」がこれに当たる。

 

大切なのは、「言葉」が無力だからといって、その無力さにすべてを投棄してしまわないことのように思う。

 

「言葉」は今まで見てきたとおり、関係性や人間を表すのに無力であることもあるけれど、その関係性や人間を救うことができるのも「言葉」だけではないのだろうか

 

形容しがたい「人間」が、ときに権利を認めてもらったり、理解はしなくとも認めてもらったりできるのは、うまく表現できない「言葉」で、それでも極限まで頑張って表現するときだけではないのだろうか

 

だから僕はウィトゲンシュタインデリダの間に立つ。

 

デリダの言うように、きっと「ほんとうのところ」「言葉」の間にはギャップがある。でもウィトゲンシュタインの言うように、人間が人の間で生きるためには公的な「言葉」しか有効でない。

 

だから僕は、無力でかつ有力な「言葉」で、それでも頑張って表現をするべきなのだと思う。

 

「言葉」で無力にされてしまう「ほんとうのところ」に、それでも「言葉」で肉薄していくべきなのだと思う。

 

人が共生するには、理解はできなくとも、「言葉」を介して認め合うことが必要であると、僕は思う。

 

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて

どうだっただろうか。

 

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて、僕は「言葉」で表現してみた。

 

うまく伝わっただろうか。

 

君がこれを読んで、「言葉」は無力だなとか、やっぱり「言葉」は有力だなとか、何か「言葉」について考えてくれたらうれしい。

 

つたない「言葉」だけれど、僕はこれをつかって、これからも生きていこうと思う。

 

<参考文献>

逆転クオリア - Wikipedia

私的言語論 - Wikipedia(箱の中のカブトムシの項目あり)

差延 - Wikipedia

*1:私的言語論 - Wikipedia参考

*2:もちろん僕はデリダの「差延」をきちんとは理解していない。デリダの言っている「差延」はもっと広い意味で使われていると思うし、その意味を僕はこの文脈では汲み取れない。だから雑な扱いになってしまうけれど、ここではそういうギャップとして、「差延」を使わせてもらいたい。

*3:仮想世界

*4:そもそも「フェミニスト」は、女性の権利をおだやかに拡大させようとか、女性にやさしい男性を指すはずで、ネットにはびこっている女性を絶対的優位に立たせようとしている人々や、男嫌いと混同される存在ではなかったはずである。最近プロフィール欄に「フェミニスト」と「ミソジニー=男嫌い」を並べているアカウントがあって驚きを覚えた。彼ら彼女ら似非フェミニストが「フェミニスト」だと思ってしまうと、真摯に活動している本当の「フェミニスト」がかわいそうである。

俺ガイル考察 5巻でカマクラがネコリンガルに残した言葉

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