臆病じゃ始まらない
ブログの内容ですごく悩むときがあります。
だいたいそれは、こんなこと私が語ってよいのだろうか、無知をさらしているだけになってしまわないか、そういうふうに思うときです。
要するに自分の無能っぷりがさらけ出されてしまったら嫌なわけです。人間、できるだけ賢く見られたい、そんな欲が出てしまうものです。
そんなわけで、なかなか哲学のことについて書くことができなかったのですが、今回は思い切ってそれについて書いてみたいと思います。
いつまでも臆病でいても始まらないですし、絵と同じで下手くそでも書かなきゃ上手くなりません。
内容的には、以前のブログで言っていたフランス現代思想について書きたいと思います。
もちろんいきなり突っ込んだ内容を書くわけにもいかないので、今回はフランス現代思想のめちゃくちゃざっくりした見取り図的なものを描いてみようと思います。
フランス現代思想には、こんな人が登場して、こんなことを言ったんだよ、というのを少しだけ書いていく感じです。
それから私はフランス現代思想の専門家、というわけでもありませんから、内容についてはある程度疑いの目を持っていただきたいです。というより哲学という学問の性格上、それ自体難解ですし、解釈も様々です。
何か決定的な誤りや微妙な解釈違いなどありましたら、コメントの方に(参考文献も書けたら)書いていただきたいです。
それではやっていきましょう。
実存主義 ――サルトル――
「実存は本質に先立つ」

「何のために生きてるんですか?」
そう聞かれて即座に答えることが出来る人は少ないと思います。つまり、人間には初めから存在する意味が与えられているわけではありません。
このことをサルトルは「実存は本質に先立つ」と表現しました。
よく引き合いに出されるのはペーパーナイフの例です。
ペーパーナイフは、紙を切るため(=本質)に作られ、現実に存在(=実存)しています。この場合、ペーパーナイフは「本質が実存に先立っている」と言えます。なぜなら何のために存在しているか(=本質)が現に存在する(実存)よりも先に決まっているからです。
人間の場合は逆です。
前述の通り、人間は何のために生きるのかという目的(=本質)が決まる前から、現に存在して(=実存)います。
言われてみれば当然ですよね。私だって何のために生きているのか、よくわからないまま生きています。
ちなみに、サルトルはこれを言い方を替えて「人間は自由の刑に処せられている」なんて言いもしました。何のために存在しているのかわからないから、自由に生きざるを得ない、ということですね。
まあそれはいいとして、問題はサルトルがなんでこんな当たり前のことをカッコつけて言ったのか、ということです。「実存は本質に先立つ」、だから何だというのでしょう?
「アンガージュマン(engagement)」
サルトルの言い分はこんな感じです。
人間何のために生まれたかわからない。わかんないから、なんか生きる目的を見つけなきゃいけない。生きる目的を見つけるためには何か行動を起こさなきゃいけない。むしろ行動によって自分が決まっていくんだ。
という感じで、サルトルは人々に何かしら行動することを促しました。
これが「アンガージュマン」です。「アンガージュマン」とは端的に言えば、積極的に行動する、ということです。
人間生まれてしまったからにはいろいろな状況、場面に出くわし、何かしらの選択をせざるを得ない。その状況に、積極的に「アンガージュマン」して、選択し、行動しよう。サルトルの言い分としてはこんな感じです。
そしてこの「アンガージュマン」が当時のフランスでめちゃくちゃ流行りました。
なんで流行ったのか、それはだいたいこういうことです。
「人間は何のために生まれたのかわからない、いや、だからこそ生きる意味は自分たちで見つけるんだ!そのためにはアンガージュマンだ!うおー!俺たちも行動を起こすぞー!」
そういうわけで、「アンガージュマン」はいろんな人に行動を、とくに政治参加を促す原因となりました。だから「アンガージュマン」は「政治参加」、「社会運動」の意味で使われることもあります。
政治や社会での「アンガージュマン」の利用は著しく、生きてるからには政治参加しなきゃいけない、社会を変えていかなきゃいけない、という雰囲気は、社会のために役に立たないことをするな、という気風にもつながりました。
例えば、政治に全く関係のないような文学は、糾弾されるなどしました。イメージだけで言うなら、戦時中の日本みたいなものでしょうか。
ただこの「アンガージュマン」、わりと言葉が独り歩きして、拡大解釈された節もあったみたいです。
サルトルはたしかに、人間は他者と関わらざるを得ない、何かに参加せざるをえない、というようなことは言ったのですが、政治参加という狭い意味に特化した用語ではなかったようです。
サルトルとしては、もっと広い意味で「アンガージュマン」を言ったようで、その目的はやはり人間の本質の追究にあったようです。
そういうわけで、サルトルは人間の実存、そしてその本質について問い続けたので「実存主義者」と呼ばれています。
構造主義 ――レヴィ=ストロース――

一世を風靡したサルトルでしたが、そんなサルトルの実存主義に痛烈な批判をあびせたのがレヴィ=ストロースです。
いったいレヴィ=ストロースはサルトルの何を批判したのでしょう。それを理解するためには、まず彼の唱えた「構造主義」について話さなければなりません。
平行イトコ婚に関するインセストタブー
レヴィ=ストロースは哲学者としてカウントされますが、その大きな功績はフィールドワークに基づく民俗学にあります。
大学教授としてブラジルに渡ったレヴィ=ストロースは、そこで、ナムビクワラ族やトゥピ=カワイブ族など、その土地の原住民たちと交流を持つことになります。
ブラジルだけでなく、ほかの多くの民族について調査したレヴィ=ストロースは、そこである法則を発見することになります。
それが、平行イトコ婚に関するインセストタブーです。
レヴィ=ストロースは、数々の民族を調べた結果、多くの民族で平行イトコ婚が禁止されていることを知ります。
平行イトコ婚とは、父母と同性の兄弟(姉妹)の子供との結婚のことです。
具体的に言えば、自分の母親の姉妹(自分から見れば伯母さん)の子供や、自分の父親の兄弟(自分から見れば伯父さん)の子供と結婚することが禁止されているということです。
逆に、自分の母親の兄か弟の子供や自分の父親の姉か妹の子供は交叉イトコと呼ばれ、その交叉イトコとの結婚は禁止されていません。
考えてみれば不思議なことです。
今でこそ科学技術が発達して、近親相姦でできた子供は遺伝的によくない性質が現れやすい、とわかります。
ところがレヴィ=ストロースの調査した民族は、科学が発達する以前から平行イトコ婚禁止のルールをもっていたのです。
しかもそれが一つの民族でなく多くの民族で、それもブラジルだけでなく地球全体の民族で適用されていたというのですから驚きです。
そしてこれこそが「構造」というものです。厳密に言えば違うのですが*1、まずは「構造」とは、平行イトコ婚の禁止のような、人間の根底に染み付いた、何か世界の根底にある原則、みたいなものだと捉えてよいでしょう。
このような「構造」を提唱したため、レヴィ=ストロースは「構造主義者」と呼ばれています。
西洋中心主義批判
- 作者: クロード・レヴィ=ストロース,大橋保夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1976/03/31
- メディア: 単行本
- 購入: 8人 クリック: 88回
- この商品を含むブログ (151件) を見る
前述の通り、レヴィ=ストロースは「構造」を唱えたわけですが、それがサルトルへの批判とどうつながるのでしょう?
ポイントはレヴィ=ストロースが、未開社会を調査した結果「構造」を発見した、という点にあります。
簡単に言うと、レヴィ=ストロースのサルトル批判は、西洋中心主義批判ということになります。
サルトルは「アンガージュマン」することで変えていけるとした歴史は、極めて西洋的に見た「歴史」にすぎません。進歩史観に基づき、順調に進歩しているかのように見えた「歴史」も、西洋の人間にとって進歩した、と言えるにすぎません。
未開社会もそれはそれできちんと確立していて、また、そこにゆるぎない世界の「構造」を見出したレヴィ=ストロースは、ちょっとやそっとのことで歴史は変えられないと考えたわけです。
この西洋による西洋の自己批判とも言えるレヴィ=ストロースのサルトル批判は、フランス現代思想の原点とも言えます。
フランス現代思想は、西洋による西洋批判が一つの根底にあります。
この西洋中心主義批判、言い換えれば西洋の価値観の相対化という姿勢はポスト構造主義へと受け継がれていくことになるのです。
ポスト構造主義 ――フーコー――
フーコーと言えば、レヴィ=ストロースのような歴史の研究で有名です。フーコーは初め、その歴史の研究において「構造」のようなものを見出していたため、構造主義者と捉えられていました。
ただそれも初めだけで、後にフーコーはポスト構造主義者と呼ばれることとなります。
この転換の理由を知るために、まずは彼の「考古学」の結晶、『狂気の歴史』について見ていきましょう。
『狂気の歴史』
- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,田村俶
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1975/02/01
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 36回
- この商品を含むブログ (47件) を見る
『狂気の歴史』は、いったいいつから狂気が科学の対象となり、隔離される存在となったのかを探った書物です。
なぜフーコーは『狂気の歴史』を探ろうと思ったのか、その動機となったかもしれない象徴的な話があります。
ロボトミー手術というのをご存知でしょうか?
ロボトミー手術とは、日本語で言えば前頭葉白質切截術というもので、端的に言えば、頭のおかしい精神病患者は前頭葉を切り取って治しましょう、という外科手術のことです。
え、そんなことしても精神病は精神の病気なんだから治るわけないじゃん!と思いますよね?その通りです。現代から見れば傷害罪でしかないこの手術は、フーコーが若いころにはまだ実際に行われていました。
なぜそんなことが行われていたかというと、当時はまだ精神病が身体的な異常なのか、精神的な異常なのかがはっきりと区別されていなかった、ということが背景にあります。
要するに、心の病も体の異常から起こっているもので、体をいじれば治るでしょ、と考えられていたのです。
今で言う精神科医だった若かりし頃のフーコーは、実際にロボトミー手術を施した患者を目の当たりにします。
それが原因となってかならまいか、フーコーはロボトミー手術が本当に有効なのか、精神病は体の病なのか、それを知るために「狂気」とされているものがいつから治療の対象になったのか、いつから精神病棟で隔離されるような存在となったのかを探ることとなります。
こうして『狂気の歴史』をたどったフーコーは、レヴィ=ストロースと同様のことに気づくことになります。
つまり狂気が狂気とされて隔離されているのは、それが西欧において一般的であるだけだということです。
結果的に、狂気が病気として認定され、監獄に収容されることとなったのは、人間がそう決めたからにほかなりませんでした。
なんなら中世においては、狂気は神に近づいてしまった証拠などと捉えられていたくらいです。
科学が、西欧の価値観が、狂気を狂気として隔離したわけです。
「エピステーメー」
- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,渡辺一民,佐々木明
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1974/06/07
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 55回
- この商品を含むブログ (178件) を見る
『狂気の歴史』を通して見たフーコーは、狂気が狂気として扱われる原因を、西欧という土地、その価値観に見出します。
そうして考え出されたのが、「エピステーメー」という概念です。
「エピステーメー」とは、その時代、その社会、その人々による価値観の総体、すなわち「知の枠組み」のことです。
とても雑に言えば、時代とか場所とかによって考え方って違うよね、という話になります。
『狂気の歴史』を見て、狂気が西欧人にそう認識されているからにすぎないと見抜いたフーコーは、狂気だけでなく、いろんなものごとがそういう「エピステーメー(=知の枠組み)」によって認識されているんじゃないか、と考えたわけです。
以上のように「エピステーメー」を唱えたフーコーは、したがって西欧の価値観を相対化した、とも言えます。
「エピステーメー」は「考え方の違い」、と言えばわかりやすいのですが、フーコーの考えた「エピステーメー」はもっと規模がでかいです。
例えば具体的にフーコーは、16世紀エピステーメーは「類似」、17世紀から18世紀のエピステーメーは「表象」、19世紀のエピステーメーは「人間」などと言っています。言ってることはよくわからないかもしれませんが、その捉え方の広さは伝わるのではないでしょうか。
ただ「エピステーメー(=知の枠組み)」という考えは今でも十分通用します。
今の社会の価値観だって、この社会の知の枠組みの影響に過ぎないのかもしれません。
フーコーに寄り添った例を挙げるのなら、フーコーの捉え方よりは少し小規模ですが、LGBTの問題がそれに当たります。
昨今、LGBTの権利の問題が検討され、さまざまな対策がなされています。
昔ならば考えもしなかった、あるいは禁忌でさえあったような権利、例えば同性婚なども認められつつあります。
自分自身ホモセクシュアルであったフーコーも、そのような問題にとても敏感でした。
フーコーは遺作となった『性の歴史』は、そのような様々な性の問題に言及しています。
また死後刊行されていなかった『性の歴史』第4巻は、「セクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ)を告発する『#MeToo(私も)』運動の高まりを受け「この独創的な大作の出版にふさわしい時が訪れた」*2というガリマール社の編集長の言葉と共に、今年(2018)の2月、つい最近刊行されました。
性の問題が活発に議論される今、フーコーは改めて読む価値があるのかもしれません。
入門の入門の入門
今回はフランス現代思想と、その思想について見てきました。いかがでしょうか。
思ったよりも長くなってしまい、もっと多くの哲学者を紹介しようと思ったのですが、分量的に3人だけになってしまいました……。
これだとフランス現代思想入門の入門の入門くらいになってしまっていますね……。
ただまあ何となくそういう人がいるんだ、というのはわかっていただけたかもしません。
かなりフランクに語った代わりに、厳密さはかなり失われてしまったように思うので、その点は申し訳ないです。
今回はとりあえず学んだことの途中経過、というか中間発表のような感じです。
フランス現代思想、もちろん難解な部分もあるけれど、学ぶところもいっぱいあります。
興味のある方はぜひ何か読んでみてはいかがでしょうか。
最後に少し参考になりそうな入門書を載せておきます。
またフランス現代思想を書くことになるなら、今度はジャック・ラカン、ロラン・バルト、ジョルジュ・バタイユ、モーリス・ブランショ、デリダ、ドゥルーズ=ガタリあたりについて書きたいです。
とにかく修行あるのみですね。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました!
<参考文献>
フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)
- 作者: 岡本裕一朗
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2015/01/23
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (24件) を見る
サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)
- 作者: 海老坂武
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2015/10/26
- メディア: ムック
- この商品を含むブログ (5件) を見る
フーコー―主体という夢:生の権力 (入門・哲学者シリーズ 2)
- 作者: 貫成人
- 出版社/メーカー: 青灯社
- 発売日: 2007/10/03
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 20回
- この商品を含むブログ (22件) を見る
*1:レヴィ=ストロースは、「構造」について「『構造』とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変換過程を通じて不変の特性を保持する。」(『構造・神話・労働』)、あるいは、「構造というものを語り得るためには、いくつかの集合の要素と関係の間に、不変の関係が出現し、ある返還を通じて一つの集合から別の集合へ移れるものでなければなりません。」(『遠近の回想)と述べている。『フランス現代思想史』岡本裕一朗 著(中公新書,2015)によれば、「構造」に関する定義で注目すべきは、「変換」という言葉であって、「構造」とは「変換」によって不変の関係を保持するものだと言う。「構造」はよく「体系―システム」と混同されるが、「構造」と「体系」の違いはまさにここにある。これを私なりにかみ砕いて説明するなら、「構造」とは、複数ある「体系」がその「体系」同士で「変換」可能な場合に、その複数ある「体系」全体のことを指す言葉である、と説明できる。だから「構造」には「体系」のバリエーションみたいなものが複数あって、しかもそのそれぞれのバリエーションがある一定の規則で「変換」可能でなければいけない。イメージとしては数学の行列だ。4×4の行列が「体系」、その行列に含まれる成分は1とか2とか3とかいろいろ「変換」できる。一応、私の理解の範囲では、そんなイメージである。



