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カフカ『変身』解釈 ――「虫」とは何か?――

 『変身』解説ーーカフカから読むカフカーー

 『変身』という作品をご存知でしょうか?ある朝目覚めると、自分が「虫」に変身してしまっていたという、フランツ・カフカのショッキングな小説です。

 外国文学としてはかなり有名で、名作との呼び声も高い『変身』ですが、その一方で「難解」だと言われることもあります。「難解」というのはカフカの小説全般に言えることですが、『変身』の場合はとくに、「虫」とはなんなのか? 結局何が言いたいのか? など、読了後にが残ることが多いようです。

 そのため『変身』については古今東西さまざまな解釈があるのですが、この記事ではその『変身』の解釈をしてみたいと思います。

 

 以前の記事で、「作者の死」という考え方や「テクスト論」などの、「作者」からではなく「作品そのもの」から作品を読み込む方法を紹介しましたが、今回はあえて作者(=カフカ)に寄り添って『変身』を読んでみたいと思います。

 それは一言でまとめると、「カフカから読むカフカ」という試みになります。

 

「虫」とは何か?

 いきなり本題から入りましょう。

 『変身』の「虫」とは何を意味しているのでしょうか?

 

 ある朝突然「虫」に変身してしまった主人公のグレゴール・ザムザは、家族からも気持悪がられ、最後には孤独に死んでゆきます。

 これについてはまず、グレゴールは「虫」という見た目が気持ちの悪い存在に変わっから、そういう不条理な目にあったのだ、と考えることができます。

 そう考えるなら、例えば、「虫」=醜いものの象徴、という解釈ができます。

 

 その場合、『変身』という小説は、どんな人でも「醜いもの」に変わった瞬間、周囲からの反応も冷たくなり、家族からですら見捨てられてしまうから、見た目って大事だよね、という「見た目の重要さ」を説いた小説ということになります。

 たしかに、周囲の反応はグレゴールが「虫」に変身したことに起因していますし、そのような解釈もアリと言えばアリです。

 しかし、作者としての「カフカ」に寄り添って考えてみると、もう少し別の解釈もできそうなのです

 

表紙に「昆虫そのもの」を書いてはいけない?

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『変身』初版

 『変身』の挿絵について、カフカは妙な注文をつけています。

 その妙な注文とは、「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」*1というものです。

 このカフカの注文の結果、『変身』の初版本には、上の画像のような「暗い部屋へと通じる扉」と「目を覆いながらそこから離れてゆく男」が描かれ、「虫」は全く描かれませんでした

 

 カフカのこの「妙な注文」から、「虫」に関していくつかのことが読み取れます。

 まず、「昆虫そのものを描いてはいけない」という注文からは、「虫」についてカフカは何か具体的な「昆虫」をイメージしてほしいわけではなかったという推測ができます。

 なぜなら、具体的な「昆虫」をイメージしてほしいなら、「表紙に昆虫を描いてくれ」とはっきり注文すればいいからです。

 つまり、『変身』の「虫」は、ゴキブリとかムカデとかカブトムシとか、そういう具体的な虫のことではないと考えられるのです。

 ということはつまり、『変身』の「虫」とは、具体的な昆虫ではなく、もっと抽象的な何かを指しているのではないかと言えます。

 

 以上のことを踏まえると、先ほどの 「虫」=醜いものの象徴 という解釈は、少しずれているように思えます。

 なぜなら、「虫」を物理的に醜いものとして描きたいのなら、表紙には具体的な「昆虫」などの、何かしら醜いものが描かれてもよいと考えられるからです。

 そもそも『変身』で「虫」と訳されている言葉は、原文のドイツ語では "Ungeziefer" であって、"Ungeziefer" とは動物や菌なども含む「有害なもの」を意味する言葉なのです。

それも踏まえて考えてみると、やはり「虫」はもう少し広い意味を持つのではないかと予想できます。

 

 では結局、「虫」とは何なのでしょう?

 それを知るには、もう少し『変身』を読み込む必要があります。

 

 

「虫」はなぜのけ者にされたのか?

 そもそもなぜ「虫」はのけ者にされたのでしょう? なぜリンゴを投げつけられ、最後には妹に「あいつはいなくならなければならないのよ」とまで言われなければならなかったのでしょう?

 その理由は、「虫」に変身して醜くなったから、というだけではありません。

 先に結論を言ってしまえば、それは「虫」は家族の役に立たないから、ひいては人間の役に立たないからだと考えられます。

 『変身』の物語自体を読んでもこのことはわかるのですが、ここをカフカの身の上と重ねて読んでいくと、より説得力が増します。

 

役に立たない「虫」と役に立たない「カフカ」

経済的問題が発生するように意図的に描かれている?

 グレゴールが「虫」に変身してしまったことによる一番の打撃は、一家の稼ぎ手が減ることだったと考えられます。

 実際にザムザ一家は多額の借金を背負っており、グレゴールが「虫」となり役立たずになると、グレゴールの父と母は仕事を増やし、さらには部屋を間借りさせることにもなってしまったのでした。

 そもそも冒頭の場面も、カフカが仕事の出張に赴かなければいけない朝であり、経済問題の発生を予感させるような場面でした。

 そのように見てみると、カフカが「虫」になってしまったことは、家族が経済問題を抱える要因になっていることがわかります

 

 以上のことから、『変身』ではそのような一家の経済的事情が問題となるように意図的に描かれているように思えます。

 そしてこのことは、カフカの身の上と大きな関りがあります

 

「失業者志望」カフカ、父との確執

 カフカの家は決して貧乏であったわけではありません。むしろ裕福だったと言ってもよいかもしれません。カフカの父ヘルマンは、高級小間物商として成り上がった実業家で、十分な利益を得ていたと言えます。

 ところが、そのように父が労働を重んじる実業家であったことこそが、カフカとの間に軋轢を生むことになります。例えば、大学で哲学専攻を希望したカフカに対し、父ヘルマンは「失業者志望」と冷笑したというエピソードがあります。

 そのように、文学の道を志したカフカを、父ヘルマンは労働に縛り付け、彼らは生涯対立することになります。

 

 また、カフカを苦しめたのは父だけにはとどまりませんでした。

 科学を発展させ、労働を効率的に行った人間の理性を信奉する近代社会の時代背景や、労働を重んじるユダヤ人の血統も、カフカに様々な葛藤を抱えさせることにつながりました。

 その葛藤とは、端的に言えば、「役に立つこと」と「役に立たないこと」の間の葛藤だと言えます。

 当時の時代背景も、血筋も、そして父も、カフカに要求しているのは労働や結婚といった「(人間にとって)役に立つこと」であって、文学や哲学といった「役に立たないこと」ではなかったのです。

 そのような環境下で、カフカは半官半民の「労働者傷害保険協会」に務めて、8時から14時まで労働し、労働を終えた夕方からは小説を書く(ときに夜通し原稿を書くこともあったらしい)という「役に立つ」生と「役に立たない」生の両方を生きていったのでした

 

「虫」=「(人間にとって)役に立たないもの」

 以上のようなカフカの身の上を考えると、「虫」はカフカの「役に立たない」側面に重なります

 「虫」になって労働もできず、人間としての生活もままならなくなったグレゴールは、まさに「(人間にとって)役に立たないもの」だと言えます。

 そのようにカフカに寄り添って考えると、「虫」とは、「(人間にとって)役に立たないもの」だと解釈できます

 役に立たないからこそ「虫」は、家族から煙たがられ、のけ者にされていき、ときに傷つけられ、最後には孤独に死んでゆくのです。

 

 

『変身』でカフカは何が言いたかったのだろう?

 なるほど「虫」=「(人間にとって)役に立たないもの」だと解釈できるのかもしれません。

 でも、そうだとすると何のなのでしょう?結局、カフカは『変身』で何が言いたかったのでしょう?

 

 「虫」が「役に立たないもの」を表しているとしたら、『変身』は「役に立たないもの」が排除されていくことへの嘆き、あるいは「役に立たないもの」が排除されることへ警鐘を鳴らしていると考えられるのではないでしょうか。

 そもそも「役に立たない」とは何にとって「役に立たない」のかというと、それは「『人間にとって』役に立たない」という意味だと考えられます。

 「虫」は働かず、家にお金を入れないから「役に立たない」し、人間の姿でもないから家族をなぐさめる「役にも立たない」と言えます。

 

 文学を熱心に行っていたカフカは、この「虫」と同じ気持ちになっていたのではないでしょうか

 文学を志すカフカは、労働をするよりお金にならないという意味で「役に立たない」し、小説を書いてもたくさんの人間の「役に立つ」とは限りません

 むしろ、その時代の風潮やユダヤ人の血統から言えば、絶望や孤独、不条理を描き人間社会には何の役も立たないカフカの小説は、排除される対象ですらあったと言えます(カフカの死んだ後ですが、実際にカフカの小説は「焚書にすべきかどうか」議論されることもあったそうです)。

 

 ではそのように「役に立たない」文学はやってはいけないのでしょうか?小説は書いてはいけないのでしょうか?

 小説を書くことが好きだったカフカにとって、それが「役に立たない」と一蹴されてしまうことは我慢ならなかったのではないでしょうか。

 だからカフカは『変身』を通して訴えかけているのかもしれません。

 「虫」は人間にはみにくく見えるかもしれない、でも、「虫」自身は人間に悪事を働こうとは思っていないし、ただそこで自分なりに必死に生きているのだ、と。

 

「役に立たない」って何だろう?

 今回は「カフカから読むカフカ」と題し、『変身』を考察しました。

 作品は作者の手を離れた途端、生き物として解釈の多様性を生むと私も思いますが、筆者に寄り添って考えることも、ときには必要なことだと思います。

 というか結局、「筆者」というのも、私から見た「筆者」であり、それは結局、自分の写し鏡に過ぎないのかもしれません。

 

 「役に立たない」って何でしょう?

 「役に立たない」ことを、私がとくに意識するのはノーベル賞、とくにノーベル物理学賞を受賞された方にニュースキャスターなどがこう、質問するときです。

 「その研究は何の役に立つんですか?」と。

 もちろん、役に立つことは大切です。役に立つことを追究した結果、人間は文明を享受できているし、便利な生活を送れています。電気、水道、ガス、「役に立つこと」が失われたら、人間生活は営めません。

 「役に立つ」こと、大いに結構。「役に立つ」ことが大好きな人は、本当にそれはそれで頑張ってほしいと思います。

 

 しかし「役に立たない」ことも、ときに大切なのではないでしょうか。

 物理や医学の基礎研究は将来の研究につながるという意味で有用であったり、文学や哲学も誰かの心を動かすことができるのではないでしょうか。

 そして何より、物理も医学も文学も哲学も、そのほかの「役に立たない」ことも、それ自体が楽しかったり、おもしろかったりするもので、それ自体に価値があるのではないでしょうか

 

 「役に立つこと」は大切ですが、それを絶対視したり、誇示したりしている様子を見ると、私はすこし悲しくなります。

 結婚を何回も破棄するなど、カフカにも人間世界から見てどうしようもない側面もあったかもしれないけれど、文学を志したカフカ、それを貫いたカフカには共感できるところもあります。

 他にも、カフカのいろいろな側面が『変身』から読み取れるので、改めて『変身』を読むとなにか発見があるかもしれません。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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*1:変身 (カフカ) - Wikipedia参照。申し訳ないのですが、紙媒体ではこの記述を見つけられませんでした。この情報の出典をご存知の方は、コメントの方に記入していただけると幸いです。